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「統合失調症克服体験記」―――みーちゃん
(みーちゃんと、みーちゃんの御主人とで綴られています)

 私は、昭和58年9月23日に創価学会に入会して、17年になります。結婚して13年になります。
 結婚する前から頭痛に悩まされ結婚後5、6年たつて、さらにその症状がひどくなり、朝は起きるのがつらく、頭が割れそうに痛く、気分も沈みがちでした。
 普通の人は、夜ちやんと眠れるのに私は、夜、眠れない状態がずっと続きました。頭痛のクスリもひんぱんに飲むような毎日でした。さらに、ひどくなつたのは、平成6年頃でした。
 人の声が聞こえたり、赤ん坊なんて近くにいないのに泣き声がきこえたり、扇風機が回っていると錯覚したり、これも、ひどくなって家事も炊事も洗濯も何もできなくなり入院することになりました。家事一切は主人に全部してもらうような生活となり、わたしは、毎日、無気力と寝たきりの状態が続きました。
 その頃、主人の転勤で、石川県の穴水へ行ったり、また、福井へもどつたりのあわただしい生活でした。
 この頃の私は、病気になつてから朝晩の勤行すらできなくなりました。しかし、この時のわたしは、病気を早く治そうという気持ちはありませんでした。自分では、初めのうちは病気でないと思っていましたし、病気だと自覚症状もありませんし、意識もしていませんでした。ただ、自己嫌悪だけが私を支配していました。
 そして、そういう症状が精神分裂病(現在では「統合失調症」と呼び名が変わっています)の一部だつたのです。
 そんな生活が何年間も続きました。
 私を看病してくれた時の詳しい話しを主人にお願いしたいとおもいます。

 今から6年前の平成6年7月14日、婦人部の方から会社に電話があり、恭代(やすよ)を預かっているので帰へりに寄ってくださいとの伝言をもらいました。その人の家に行ってみると、泣いてばかりの状態の恭代がいました。わたしには、なにがあったのかさっぱりわかりませんでした。話しを聞くと、パート先で何かしら不安におそわれて無我夢中で車に乗っていつも頼りにしている婦人部の方の家にたどりついたとのことでした。
 その日は家に連れて帰へりましたが、いつもと全然、様子が違っていて、目を離すとどこへいくかわからないし、意味のわからないことを話していて、まるで頭の中がパニックになつて入る様な感じでした。実家のお父さんに手伝ってもらって病院を何軒も回ってやつと治療を受けて休んでいると少しおちついてきた様子でした。それから、2ヶ月が過ぎた頃、急に自分から精神科に入院したいと言い出しました。周りの人は、反対しましたが恭代は早くこの病気と決着をつけたいといって福井医科大学の精神科に入院することになりました。入院してしばらくは活発さがありましたが、1ヶ月ぐらいすると精神科のクスリの副作用からか一つのことに集中できず落ち着かない状態になり、歩き方は、老人みたいにヨチヨチと歩くようになつて自分の眼を疑うほどころっとかわってしまつたのでした。医者と家族との面談のときに恭代は精神分裂病だと聞かされました。さらに、この病気が良くなっても以前のような活発な状態にはもどれないでしょうと医者からいわれたのです。一日でも早く社会復帰できるようにまた、クスリがからだに合うようにと医者に頼みこみました。恭代のご両親も大変心配して医者と真剣に話しをされたときいています。
 入院して落ち着かない状態はづづとつづき食欲もありませんでしたし、さらに咽喉がよく乾く症状が出てジュース類を一日に何本ものんでいました。
 しばらくすると次は、くちびるがピクピクと無意識に動くようにもなつてきました。
 恭代が入院してからは仕事が終わると毎日のように病院へ行ってしばらくの時間でも顔をみせて安心させ元気付ける様にしました。後は家で御本尊様に向かって一日でも早く元の状態になつて生活ができるように御祈念し、真剣にお題目を唱えました。その頃の私は、朝は、聖教新聞の配達をして自分で弁当や食事の用意をして会社に行き病院から帰つてくると食事の後かたづけをし洗濯をしたりして毎日が忙しくて恭代の病気を悔やんでいる暇などすこしもありませんでした。病気のことを家庭医学辞典で調べましたが、自分ができることといえば本人を元気づけることぐらいでした。精神病はその症状がすぐにはよくならないので時間をかけて少しづつ良い方向へ持っていくしか方法はありません。入院してから半年がたつたころ、恭代の御両親はこのまま入院していても良くならないとおもわれたのか娘の身体を案じて他退院させることにしたのでした。退院しても症状はかわりませんでした。退院してから半年がたち平成7年9月に私の仕事の都合で石川県の能登の穴水へ転勤することになりました。そのことを恭代にいうとわたしも一緒に行くといってだれの意見もききませんでした。
 私は違った場所での生活が恭代にとって気分転換になるだろうと気楽な気持ちで連れて行くことにしました。
 穴水での生活でも恭代はほとんど一日中寝ている状態でした。
 食欲もなく、日に1食(一度)ぐらいしか食べませんでした。
 これではいけないとおもい体力をつけるためにまずは好きな食べ物をたべさせ歩かせるようにすることだとおもいました。
 歩く時は、いつも私の腕につかまつていました。また、自分で風呂にはいるちからもなく一緒にはいって洗ってやり、髪の毛もかわかしてやりました。日中は寝ていないで身体を起こすための練習にと座椅子に座らせていました。恭代の好きな物はうどん、ラーメンだつたので恭代を外出させ歩かせるために外でラーメンを食べに行くぞと食べ物で釣って外出していました。
 穴水での恭代の病院は七尾まで行かなければなりませんでしたので、通院するときには、できるだけ自分で行くようにしむけました。ひとりでいってもこまらないようにと電車を降りる駅や病院の名前を書いてやりました。七尾の病院でも眼に見えるほどの進展はありませんでした。次の年の春に福井へもどることになり、このとき恭代を通院させる病院を医科大ではなく、県立精神病院にすることになりました。これは、恭代の御両親の強い要望でありわたしも賛成しました。ここでの恭代の先生はベテランの院長にみてもらうことになつたのです。担当の先生がよかったのかしばらくするとクスリが身体に合うようになってきて、ヨチヨチ歩きや、くちびるのピクピクも治ってきたではありませんか!
 ようやく上向きに転じてきたのでいままでの苦労がいっぺんに報われた思いがしました。もっと、体力をつけるために家から実家までの500mをあるいてご両親に顔をみせて安心させてあげなさいといいきかせました。初めのうちは、1週間に一回ぐらいでしたがだんだん多くなって1週間に2、3回は歩いていけるようになつてきました。このころの恭代はまだ人と話すことが苦手だつたので恭代のお母さんの提案で保健婦さんに話し相手にきてくれるようにとたのんだのがきつかけとなり、金津保健所のデイケアに行くことになりました。恭代がデイケアにいきだしたころはまだ、顔の表状に、にこやかさがありませんでした。それで、なにか楽しめるものがないかとあちこちの催し物につれていきましたがなかでも効果があつたのは菊人形のOSKの舞台をみたときでした。恭代はたいへんたのしそうだつたし笑い顔もみられたので、それから毎年いくようになりました。
 毎日の生活では身体に異常がないかぎりは買い物などに必ず一緒につれていってひとごみのなかが平気になるようにと外出の訓練をしました。また家事に意欲をもてるようにするために毎日すこしづつわりあてて、それができたときの達成感が自分のよろこびやはげましになるようにしました。わたしは、こころのなかで頑張れといのっていました。県立精神病院に変わって1年半ほどたつころには、家事をこちらからいわなくともじぶんからするようにまで回復してきました。もうじき結婚10周年になるし恭代も元気になつてきたのでそのお祝いとして平成9年12月に海外旅行にいくことにきめました。病院の先生に意見を伺ったところ大丈夫でしょうと許しがでました。10日間のヨーロッパ旅行にいくことになりました。ドイツでのハイデルベルグやローテンブルグの街の家々がおとぎの国のようで恭代は、夢を見て入る様やねとよろこびの声と笑顔が印象的でした。旅行ができるまでになれてよかつたねと感動と感謝の思いでいっぱいになりました。
 また、旅行中ツアーの人達とも楽しく話しをすることもでき、旅行も異状なく無事帰ってこれました。
 恭代がよくなつてきた転機となったのは地区の皆さんが私の家を唱題会の会場にしてくださつたことだとおもいます。
 病気がひどいときは、恭代は自分で題目をあげることができませんでしたが唱題会を家でするようになつてすこしづつ題目をあげれるようになり家事への意欲がでてくるようになつてきたとおもいます。これは、正しい信心を実践してきた証拠でうるとおもいます。病院の先生に食事の用意ができるようになつたと報告したとき、先生は、だんだん良い方向にむかつていますねといつてくださいました。また、睡眠薬を飲まなくても寝れるようになり病院へいく回数も2週間に一度から3週間にいちどになつてきて薬も通院するたびにかわつていきました。
 それから、クスリをのんでいることで車の運転も止められていたのですが運転のゆるしもおりるようになつたので車の運転の練習もはじめました。平成10年8月頃には社会復帰のための訓練所に自分で運転していけるまでになつたのです。
 精神病はよくなるまでに10年20年とかかるとききいていましたが御本尊様に守られ、発病から5年で回復し福井市の方へパートにいけるまでになれました。パートに行きだして早、1年になりいまでは、あちこちしびまわつています。
 私達が、尊敬する池田名誉会長の指導のことばのなかに一人の人間における偉大な人間革命はやがて一国の宿命の転換をもなしとげさらに全人類の宿命の転換をも可能にする、とあります。
 私達の病気の宿命をひとつ乗り越えられたのは、創価学会の池田先生や地域の同志の皆様の日々たえまのない激励のたまものとおもいます。妻の病気に関わってくださったご両親ご兄弟、地域の方々、保健婦さんや、病院の皆様方に心から感謝し、お礼をもうしあげます。ほんとうにありがとうございました。
 これからもわたしたちは、この偉大な信心を生涯貫き通し、皆様のお役にたつことができるよう日々精進し頑張って行く決意です。本日は大変ありがとうございました。