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論文を読んで頂く前に―――Jonathan(2003/5/3) 仏の悟りは、宇宙大であり、その宇宙大の生命を、寿量品では、永遠に慈悲の活動を続ける「常住此説法」の仏身と説かれ、我々の境涯が、宇宙大に無限であると法華経は語りかけています。「寿量品の魂」は、我々の生命がこの釈尊と同じであること示唆しています。 釈尊の説法に「法を見る者は我を見る。我を見る者は法を見る」というのがありますが、仏法は人法一箇として体得するものであり、「永遠の法」と一体になった「永遠の仏」を我々は、究極的に悟るわけです。 池田先生の『法華経の智慧』(第四巻P57)では、こう語られています。 「釈尊が悟った『永遠の法』即『永遠の仏』は、あらゆる仏が悟った『永遠の大生命』であった。過去・現在・未来の仏は、ことごとく釈尊と同じく『久遠元初の仏』を師として悟ったのです。 それが久遠元初の自受用身であり、南無妙法蓮華経如来です。戸田先生は言われた。 『日蓮大聖人の生命というもの、我々の生命というものは、無始無終ということなのです。これを久遠元初といいます。始めもなければ、終わりもないのです。大宇宙それ自体が、大生命体なのです』と。 無始無終で慈悲の活動を続ける、その大生命体を『師』として、『人間・釈尊』は人間のまま仏となったのです。 そして悟ったとたん、三世十方の諸仏は皆、この人法一箇の『永遠の仏』を師として仏になったのだとわかったんです。」 これから、紹介する私の論文は、宗門問題発生直後のものであり、宗門に無理やり押し付けられてきた「教学的な解釈上の問題」に反発し格闘しながら、御書を心肝に染め、素直に読み解いてきた、自分自身の大学時代の3年間の研鑽の成果です。釈尊の遺訓に「自らを島とし、自らをたよりとせよ。他人をたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとせよ」と。すなわち、「自帰依・法帰依」「自灯明・法灯明」と言われる言葉を頼りに、それまで西洋哲学を学んできた私、人生の意味を捜し求めていた私が、自己の「実存」という問題に徹底して射程をあわせ、祈り切り、読みきり、折伏し、闘いきったの一つの成果です。ただ、この論文では、その後発展する宇宙大の生命への思索が弱く、人法でいえば、法に偏りすぎた内容になっています。その辺のことを考慮されながら読んで頂ければ、これ以上有難いことはありません。『法華経の智慧』では、「『法をよりどころとせよ』とは、根本的には『永遠の仏』を師とせよ、との遺言であったのです」と、法はあくまで人法体一であることを、言い添えておきます。 (論文に関する質問は、BBSでバンバンしてください。議論のたたき台のつもりでHPに掲載しました。) 「真の創造性とは何か―随縁真如・不変真如を巡って―」―――山口 大輔 『御義口伝に学ぶ』(信解品六箇の大事・第一信解品の事(御書七二五)) 創価大学生命哲学研究会・論文集『生哲』第21号掲載 (1993年/平成5年11月2日) 「価値を創造する」――ということとはいったいどういうことだろうか。 幸福を追求するということは、価値を創造するということであると言ったのは、牧口先生であるが、はたして、我々は、この言葉の意義をどこまで理解して使っているのであろうか。我々は、この「価値を創造する」という言葉を、戸田先生がつづめたように、「創価」の二字に置き換えて使っているのであるが、日常この言葉の含意性に触れることがあまりないように思われてならない。 この「価値を創造する」ということを一歩深く、生命哲理の観点から論ずるならば、縁に随って瞬間瞬間発動する「随縁真如の智」ということになる。また、価値に対して真理を云々いうならば、絶対的究極的真理とは、一念三千、すなわち「不変真如の理」である。御義口伝にはこうある。 「帰というは迹門不変真如の理に帰するなり、命とは、本門随縁真如の智に命(もとづ)くなり、帰命とは南無妙法蓮華経是なり」(御書七百八) 我々が題目を唱え御本尊に帰命するときは、この不変真如という究極的な真理に帰り、随縁真如という無限なる智慧の発動に命(もとづ)くのである。それが南無妙法蓮華経であると。 一口に価値を創造するといっても、我々の信仰においては妙法を根本とし、そこから創造へのエネルギーを湧き出だすという姿をとる。「創価」の二字にはこのような深い意義が込められていると考えることができる。 この論考においては、この「第一信解品の事」の「信解」という信仰の根本問題を中心に、随縁真如と不変真如という問題をめぐって、それにからむ生命哲理とその実践(菩薩道)の考察を行って行きたいと思う。 一、出世間――哲学の根源 一般に哲学の世界では、「哲学すること」への衝動が生まれる源泉という意味で、哲学の「根源的動機」ということが問題とされる。この根源的なものは多様である。たとえばプラトンなどのギリシア哲学は、「驚異」の念というものを哲学の根源にしている。大自然の営みに対するえも言われぬ驚嘆の念、それが人間に深い思索の源泉を与え、そこから、知ること、認識することの重要性が問われたのである。また、デカルトなどの時代においては、「懐疑」ということが問題とされた。あらゆる認識に対して懐疑という批判的吟味のメスが入れられ、それをとおして明確な確実性を見つけだそうとしたのである。現代においては、人類は、二度の大戦を経験し、その深刻な影響下において、実存哲学などの人間の「限界状況」を見つめる哲学的潮流が生まれるに至ったのである。 これら三つの根源的動機を我々信仰者の立場から論ずるならば、この動機とは、我々をして信仰へ向かわしめる根源ととることができよう。言わば「出世間」のベクトルである。信仰の不可思議に対する「驚き」と認識、流転する現実世界への「懐疑」から信仰へ、信仰そのものに対する方法的な「懐疑」からより深い信仰の確実性の境地へ、また、生老病死や運命という「限界状況」、それによって引き起こされる衝撃的な動揺と自己喪失の意識、そこから自己に対する問いが生まれ、信仰が生まれるのである。 ストア学派のエピクテトスは「哲学の根源は、自己の弱さと無力を認めることである」といったが、この不確実かつ無力な自己を認識して、超越する方向へ、確実性への戦い、自己拡大への戦いを開始するのが、哲学と「信仰」の本質であると私は思うのである。 故に本来信仰とは、世間一般で言われるような現世的利益主義とか、信仰の対象への盲目的服従といった、人間を矮小化させるものではなくして、人間の知的営為と深く結びついた脱自的な自己革新主体であり、極めて哲学的な問題でもあるのである。哲学と信仰が、人類にとって不可避なものであることを歴史が証拠立てているように、これに一致点を見出すことは、最も自然なことであり、かつ必要なことであると思われる。この分断が、たとえば実存主義者の精神や、一国家、特に共産圏において、深刻な現象を引き起こしたことは歴史における顕著な例なのである。そして、その分断(近代的合理主義)の上に今日の世界が形成されているのである。(この詳細は、前号の論文集『生哲』一〇〇nの石内氏の考察を参照) 一般的にキリスト教は「信の宗教」と呼ばれるのに対して、仏教は「智慧の宗教」と呼ばれるが、キリスト教は、中世スコラ哲学の破綻から明らかなように、もともと人間の理性をを包摂しきることは原理的に不可能であり、それゆえに西洋の歴史において深い精神的分裂の爪痕を残したのである。それに対し仏法は、その出発時点より、「信」すなわち信ずることと「解(智慧)」すなわち思惟し、世界の成り立ちを理解することとは、同じ信仰の根本問題として扱われているのである。これが仏法の特徴である。御義口伝には、「信の外に解なく解の外に信無し」(御書七二五)とある。つまり、信仰における理性の問題は、一切智・慧眼というかたりで仏法の大きな智慧の大海に包摂され、相剋はありえない。一切智とは、一切の思想及び経典に通達した二乗の智慧であり、慧眼とはそれを見極める智慧である。 とまれ、中世の代表的スコラ哲学者のアンセルムスは「知らんがためにわれ信ずる」という有名な言葉を残したのであるが、これは、宗教の本質的立場の表明であり、理性の限界を示した言葉でもある。すなわち、理性によって世の中の一切を把握し切ろうという試みは、宗教的な「信」を根本にした直感知をもとにしなければ、それのみでは成り立たないのである。仏法で説くところの世界をありのままに見通していく、仏・菩薩の智慧、すなわち道種智・一切種智が必要なのである。この点において、もう一度「根源的動機」という問題に戻って考えてみれば、新たにもう一つ、哲学の根源として「信」あるいは「慈悲」があると言うことができるのではないだろうか。一度世間を出た「出世間」の智慧は、衆生救済という強力な慈悲のエネルギーに支えられて、無量の法門を説く智慧に転化される。これが「出・出世間」のベクトルであり、「随縁真如の自受用智」(同n)となる。つまり、出世間のときにおいてあまりなかった動機が、ここに根底的に強められて新たな革命的な方向付けがなされ、世間へと再び出て行くのである。 このことを、もう一歩深く、「帰」する当体たる「不変真如の理」とは何かということを考察しながら、我々の信仰の根本的な構造(地涌)について触れてみたいと思う。 二、虚空会――胸中の本尊 冒頭で論じたように、我々が帰する当体とは、「迹門不変真如の理」(御書七〇八)であり、「一念三千の理」である。これは、釈尊が法華経迹門「諸法実相・十如是」を説き、天台がそれを衣文として迹面本裏をもって体系化したものである。すなわち、一切衆生の存在の構造的平等性を明かし、成仏が可能となることを明らかにしたものである。衆生は、「理」としては、この一念三千の当体であるということができ、「事」としては、日蓮大聖人が自身の生命の上に体現された。その生命を、一幅の曼荼羅として顕されたのが「本尊」である。 諸法実相抄に「諸法実相・十如是」を指して 「十界の依正の当体・悉く一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云う経文なり・・・されば法界のすがた妙法蓮華経の五字にかはる事なし」(同一三五八) と。諸法といい森羅万象という差別相が究極において、そのまま、共通の「南無妙法蓮華経」・普遍的な「真如」・宇宙万有の根源的真理であり、それを信じ行ずるところに、「事」として顕れる。この第一信解品にはこうある。 「信は不変真如の理なり、其の故は信は知一切法皆是仏法と体達して実相の一理と信ずるなり。解は、随縁真如なり自受用智を云うなり」(同七二五) 一切の法とか、現象と言ったもののその根底には、根源の一法としての妙法が厳然として存在する。諸法の実相とは、その「実相(じつのすがた)」と言う言葉が示すように、万象の根底にあって、諸法を統一し実体としての宇宙の中心を立てるのではない。また、実相の中に諸法が含まれるのでもなく、諸法の中に実相が包まれるものではない。あくまでも、現実の人間や事象を徹底的に凝視し、そこに真理を見出していく。諸法に即して実相であり、実相に即して諸法なのである。その見極めていく智慧が仏・菩薩の智慧であり、「如実知見」という。大聖人は、この根源の一法を「衆生本有の妙理」(同三八三)として如実知見され、自身を一切衆生の成仏の手本として、衆生が自身の仏性を顕現させるため、その明鏡として、自信の悟りを曼荼羅として書き顕されたのである。 「日蓮がたましいを墨にそめながして、かきて候ぞ。信ぜさせ給え。仏の御意は、法華経なり。日蓮がたましいは南無妙法蓮華経にすぎたるはなし」(同一一二四) また、その御本尊の相貌については、「是全く日蓮が自作にあらず」(同一二四八)とされ「其の本尊の為体(ていたらく)本師の娑婆の上に宝塔空に居し塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し(中略)是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し八年の間にも但八品に限る」(同二四七) 本尊は、法華経の従地涌出品から嘱累品までの八品の地涌の出現から、妙法の付属を受ける「虚空会の儀式」を象っているのである。 このことは何を意味するのか。もし「日蓮がたましいを墨にそめながして」というところの「書く」ということを、単に物理的な動作のみに限定し、日蓮大聖人の悟りがそのまま移されているなどと神秘的な解釈をしようものなら、現在宗門問題を取り扱う過程で問題とされているように、書写した本人と大聖人が同じ境涯でなければ功徳が無いということになってしまう。もしくは大聖人直筆の本尊のみに功徳があることになる。しかし我々が拝んでいる本尊は、法主が開眼して「たましい」を「そめながした」から功徳があるわけでは絶対にない。そうではなく、大聖人が法華経を身読・色読し、その闘いで得た自身の生命のありのままの姿・境涯と、「虚空会の儀式」の相貌そのものが象徴的に表している生命哲理・生命の実相とが、同一のものであり、これを自身の悟りの証明・実践の証明として書き現すことに重大な意義が存するのである。また、ご本尊において大切なのは相貌であり、大聖人の御図現された通りの文字の配列・選択・筆致であるかどうかである。あくまでもそれが大聖人の悟りの内容を表しているからである。 では、その本尊の内容とは一体何か、もう一歩掘り下げたい。御義口伝には、大聖人が寿量品の「時我及衆僧倶出霊鷲山」の文を指してこう述べられている。 「(この御文は)霊山一会儼燃未散の文なり。時とは感応末法の時なり・我とは釈尊(仏界)・及とは菩薩・聖衆(二乗)を衆僧と説かれたり・倶とは十界なり・霊鷲山とは寂光土なり。時に我も及も衆僧も倶に霊鷲山に出ずるなり。秘す可し秘す可し。本門時の一念三千の明文なり、御本尊は此の文を現し出だし給うなり。されば倶とは不変真如の理なり出とは随縁真如の智なり、倶とは一念なり出とは三千なり(中略)霊山とは御本尊並びに日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る者の住所を説くなり」(同七五七) 霊鷲山の一会という、釈尊が説法をした時間・空間を超越した宇宙大の壮麗なこの虚空会の儀式は、結局、釈尊己心の儀式であり、法華経の行者己心の実相なのである。ゆえに天台が「儼燃として未だ散らず」と説いているように、法華経の行者の胸中に厳然と存在し続けるのである。すなわち霊山に集った十界の衆生は、行者己心の十界であり、十界互具・一念三千を表す。これが「不変真如の理」であり瞬間の一念に具わる。釈尊においてその内証(法体)は、「虚空会」として、天台においては「一念三千の法理」として、大聖人は、「御本尊」として表されるのである。 「多宝搭中の二仏並座の儀式を作り顕す」(同一三五八) では、大聖人のご本尊が「事」の一念三千と言い表される所以は何なのか。もともと「事の一念三千」とは、法華経本門に名付けられ、迹門で説かれた衆生成仏の理論が、釈尊が久遠の昔に成道したことを明かすことによって、「人間・釈尊」の上に起こっていたことが明らかとなる。そこに「事」としての意義が存在する。すなわち、法といってもこの現実の娑婆世界でそれを実践しその通り成仏を成し遂げる人がいなければあくまでも理は、理でしか過ぎない。しかし、大聖人が 「一代応仏のいきをひかえたる方は理の上の法相なれば、(法華経)一部ともに理の一念三千、迹の上の本門寿量ぞと得意せしむること脱益の文の上と申すなり、文の底とは久遠実成の名字の妙法を、余行にわたさず、直達の正観・事行の一念三千の南無妙法蓮華経是なり)(同八七七) といい、法華経を迹であり、理として斥けられるのは、釈尊が久遠の過去に行じ仏となることができた「本因」、諸仏能生の根源たる「法」は法華経では志向されていても、秘して明確には明かされず、したがって、それを行じて成仏したという手本がないからである。それは、文上の「応仏」である釈尊は、色相荘厳・三十二相・八十種好の「本果」であり、もはや「人間」と呼べる仏ではなく、しかも、文上の「本因」(菩薩道)を実践すれは、実報土へと解脱し「本国土」である娑婆世間から離れてしまう理論となっている故である。大聖人は、末法において、この娑婆世界で、一切衆生救済を掲げ、この究極の妙法を説き広める実践により、三類と戦い、自らの生命にこれを体現した。この「人間・日蓮」の闘い、ここに「事」としての本尊の意義があり、これなくして「事」としての「本尊」の意義はない。ゆえに 「汝等が身を以って本尊とすべし(中略)日蓮が影・今の大曼荼羅なり」(富要集一巻三十二) と。大聖人はこうして一切衆生の明鏡としての本尊を顕された。所詮、本尊といっても人間生命であり、現実の人間生命を離れたところに本尊はない。 大聖人は、また、我々にこう呼びかける。 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ、只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり」(同一二四四) 「本尊とは法華経の行者一身の当体なり」(同七六〇) 相貌から論ずれば、中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」は、十界を顕現している相である。南無妙法蓮華経(仏界)が、単なる現象界の本質とか実在とかの理法に過ぎないならば、日蓮(九界)という現象・存在の背後に隠れる。しかし、文底久遠の妙法は、「事」として具体的な「人間・日蓮」の上に現れているのである。中央の「南無妙法蓮華経 日蓮」は、「九界即仏界・仏界即九界」(同二五六)、名字即究竟、凡夫即極として、一切衆生に範を垂れる形となっている。そこに集った十界の衆生は、「御本尊の中に住し給い妙法五字の光明にてらされて本有の尊形となる」(同一二四三) とあるように、中央の大聖人を実相として即身成仏の姿を現じており、同時に行者己心の十界を表している。故に、我々が御本尊に向かって南無妙法蓮華経と唱える姿は、この十界の衆生とともに、この虚空会に連なる姿を現しているのであり、それと同時に 「一人を手本として一切衆生平等なること」(同五六五) 「多宝如来の宝塔を供養し給うかとおもへば、さにては候はず、我が身を供養し給う、我が身、又三身即一の本覚の如来なり」(同一三〇四) とある通り、ご本尊に見るのは唱題する自身の姿でなければならない。あえていうなら、中央の「南無妙法蓮華経」の下に、自身の名をみて、唱題していくべきである。「観心の本尊」とは、我々の生命状態とは無関係に、常に我々の成仏の姿を写し出しているのであり、読んで字のごとく、衆生が手にとって見ることができないものを、目の前に文字として写し出して見ることができるようにした、言わば自身のレントゲン的な役割を果たすものなのである。 「法華経を持ち奉るとは我が身・仏身と持つなり、・・・持つ体は妙法の五字なり・・・仏身を持つとは我が身の外に仏無しと持つを云うなり」(同七四二) 「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房、此れより外の才覚無益なり」(同一三〇四) もし、本尊だけに「仏界」を見て、自身に「九界」しか見ないのであるならば、それは「無益」である。結局、「観心の本尊」の存在意義は、自身が尊極なる仏の当体であると言うことを信じきれるか否かにかかっているのである。 「我が己心の妙法蓮華経を本尊とあがめ奉りて、我が己心中の仏性・南無妙法蓮華経とよびよばれて、顕れ給う処を仏とは云うなり」(同五五七) 日寛上人の文段にこうある。 「本尊すなわち、我が心にしみ・・・我が身すなわち本尊に染み」(文段六〇五) 感応妙原理から、大宇宙の生命の縮図である本尊を縁として、主題と虚空会が表すバランスの取れた心理状態である本尊の相貌を、自身の生命に顕現するのである。 「我等この御本尊を信受し、南無妙法蓮華経と唱え奉れば、我が身即一念三千の本尊、蓮祖聖人なり」(同五四八) さて、以上のように本尊について長々と論じてきたのであるが、結論として私がここで言っておきたいのは、今日の宗門問題を経過して、一つ明らかなこととしては、御本尊が、「実体論」から「象徴論」へと必然的に移行したことであると言えるのではないか。法主のその権威づけられた座と共に書写が神秘化される図式にあって、これを御本仏の命そのものとして扱い、それ自体が絶対的価値があるとされてきた。しかし、片方では学会は「人間生命」より尊いものはないと主張してきたのである。本尊とは「人間生命」に他ならない。それは、大聖人自らが、「此の御本尊全く余所に求る事なかれ」と仰せの通りである。この本尊実体論の背景には、「久遠元初自受用報身如来」という衆生に内在する智慧を、具体的な実体・超越存在として、大聖人そのものに限定する「宗門伝統教学」の誤謬があるのである。久遠実成の釈尊と、凡夫即極の大聖人を並べ、比較し、大聖人を超越神にしてはならない。久遠元初はあくまでも一切衆生共通の本地であり、自受用身は「解は・・自受用」と、それを開く智慧をいい、また「智に就くを報身と為」(六巻抄二一六)が報身の意味である。「久遠元初自受用報身如来」(報中論三)とは、我々一人一人の無作本有の姿を指しているのであり、大宇宙の生命活動の姿そのものなのである。大聖人は寿量品の「我」を指してこう言われている。 「我実とは釈尊の久遠実成道なりと云う事を説かれたり、然りと雖も当品の意は我とは法界(大宇宙)の衆生(凡夫)なり十界己己を指して我と云うなり、実とは無作三身の仏なりと定めたり此れを実と云うなり、成とは能成所成なり成は開く義なり、法界無作の三身の仏なりと開きたり、仏とは此れを覚知するを云うなり(中略)今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者は寿量品の本主なり」(御書七五三) 「自身の仏乗を悟つて自身の宮殿に入るなり、所謂南無妙法蓮華経と唱え奉るは自身の宮殿に入るなり」(同七八七) ともあれ、大聖人の仏法では、自身本有の妙理である南無妙法蓮華経を信じきれるか否かが根本であり、信仰の問題としてはすべてそれに尽きるのである。 三、出・出世間――永遠の菩薩道 大乗菩薩道の理念は、すべての衆生を成仏に導くまでは、正覚を取らぬという誓願(四弘誓願)にあるといわれる。経典成立の歴史にあって菩薩群への激励と賞賛、その自行化他の崇高さを強調するような背景が、言わば、永遠の釈尊像とともに、永遠の菩薩像というものを形作ってきたといえる。 しかし、久遠実成の釈尊そのものは依文判義すれば、原理的には「我本行菩薩道」の修行により、五百塵点劫の久遠に菩薩から仏になっている。その限りでは、九界から仏界へと解脱する「厭離断九」・「従因至果」型の成仏観、与えて言っても「有始無終の九界即仏界」と考えざるを得ない。 他方、上行をはじめ自力で虚空会に参画した地涌の菩薩の本地は、下方「法性之淵底玄宗の極地」(御書七五一)「法性の大地」(同八三三)の仏界である。 「本地無作の三身を顕さんが為に、釈尊所具の菩薩なるが故、本地本化の弟子を召すなり」(同七九八) すなわち、地涌は明確に本地無作の仏界から九界に出る「仏界即九界」「従果向因」の成仏観を表現している。 嘱累品の「総付属」のような、釈尊が無量の菩薩の頂を撫で、「今以って汝等に付属す」(開結五八五)といった、具体的な付属の描写に対し、神力品の地涌への「結要付属」では、天台が「只下方の発誓のみをみたり」(御書二五二)といったように、言わば地涌の決意発表だけで、終わっている。 「されば地涌の菩薩を本化と云えり、本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず」(同七五一) つまり、要点は、「本法を所持しない」しない迹化の菩薩とは異なり、地涌の菩薩はその自己の当体にすでにその法を体現し、所持している無始無終の本覚なのである。それ故釈尊の具体的な言葉を必要としないといえる。 この仏界が九界に現れるとき、四菩薩に代表される常楽我浄の四義・四徳となる。 「二死の表に出づるを上行と名け、断常の際を踰ゆるを無辺行と称し、五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け、道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」(同七五一) 生死に迷わず、自己の生命を観じながら、悠々と「自身法性の大地を生死生死と転ぐり行く」(同七二五)、また穢土を寂光土へと転換していく自由自在の境涯である。現実世界に飛び出し「随縁真如の智」(同六二五)を働かせ、日々の生活の中で具体的に価値創造していく、ここに地涌の菩薩の本来的な意味がある。 結局、「始覚即本覚」「名字即究竟」といっても、「名字の凡夫」(同五〇七)が、仏になる以前のそれであるならば、文上の意義を出なくなってしまう。あくまで、名字に即して究竟であり、凡夫の内在に即、仏という超越を見いだしていかなければならない。 「此の時地涌千界出現して本門の釈尊を脇士と為す」(同二五四) 「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり」(同一三五八) これが地涌と久遠の釈尊との本迹なのであるが、諸法実相抄の前半の意味は、永遠の「荒凡夫」に即して「無作三身」である。 九界と仏界の関係を現代的に分かりやすく言えば、「九界」とは人間「存在」に他ならず、「仏界」はさしずめその「本質」といったところだろう。「本質」は「実存」するのである。 「此の本法を受持するは信の一字なり」(同七五七) とあるが、「信」によって自身の「本質」にたる「不変真如の理」に帰り、「存在」が「随縁真如の智」の働きとして時々刻々として変化していくのである。帰する当体といっても妙法、帰したときに、それに命(もとづ)いて発動し照り輝く智慧も妙法となる。これを「随縁不変一念寂照」という。 成仏といってもどこか彼方にあるのではなく「従果向因」という唱題行・菩薩行(自行化他)の不断の実践の中にある。 「信は価の如く解は、宝の如し」(同七二五) 我々は、唱題によって、日々、仏と成(ひら)いて、みずみずしい仏界の智慧を涌現している。 もしもこの随縁の智慧を発揮することを忘れて、またそれを怠るなら、せっかく御本尊への信によって智慧を買いながら、その宝を使わずに放置しておくに等しい愚かなことになってしまう。しかも、もっと恐ろしいことは、智慧を発揮せずにいることは、健全な信自体を弱める結果となる。 法華経二十八品のドラマが、前霊鷲山において、現実の九界の衆生が、仏界を内在していることを明かし、虚空会そのものが仏界の生命を象徴し、そこに地涌が現れる。また、後霊鷲山においては、仏界から再び九界の現実に降り立ち、九界を変革していく姿を薬王、妙音、観世音などの菩薩の実践を通して示した。 それと同じように我々も、現実の社会活動に励みつつ、ときには苦しみ、また、朗らかに、朝晩、御本尊という宝塔に対座し、そして、自身の清浄な「仏界」を涌現して、日常生活や現実社会の変革に、雄々しく価値創造の炎をもやし立ち向かっていくのである。 言わば、この姿は、日々これ「地涌」であるとともに、日々これに「二処三会」である。 譬喩品における舎利弗への授記受記の下りに 「正法を奉持して、菩薩所行の道を具足して、まさに作仏することを得べし」(開結二〇〇) とあるが、因果倶時の私たちの立場でも湧き出した智慧を、菩薩の道に使い発揮して、初めて成仏が可能となる。 「本行菩薩道の文は不軽菩薩なり、此れを礼拝の住処と指すなり」(御書七六八) 「信は二道に通じ、解は唯修道にあり、故に修道を解と名く」(同七二七) 最初の問題提起にかえって論ずるならならば、すなわち、唱題を根本とし、法華の絶対の世界より、相対の世界である現実社会で、どれだけ人々の幸福を実現し、どれだけ創造的な行いができるかが、地涌の菩薩か否かの分かれ目であるといえる。 仏法において、この「価値創造」つまり「随縁真如の智」の発動に、「本門」というより重大な意義がある。 そして、その創造活動を根源的に支えるのは、南無妙法蓮華経という、「慈悲」の一念である。 「今日蓮等の類、南無妙法蓮華経と唱え奉る念は、大慈悲の念なり」(同七五八) 「仏心とは大慈悲心、是なりと説かれたれば、礼拝の住処は、慈悲なり」(同七六九) 内面に元初の生命を日々、赫々と昇らせながら、慈悲に住し、現実社会において、新たなる「生」を創り出す激闘、この菩薩道の精神の中に「人間革命」がある。 大聖人の生涯の化導は、「立正安国論に始まり、立正安国論に終わる」といわれるが、「立正」という帰一の側面と、「安国」という時代や社会の幸福追求は、最初から相即不二の関係として問題とされる。結局、仏法は人々の幸福の追求のためにあるものに他ならない。ならば、我々は、現実社会が直面する問題に率先してその根源的な智慧を発揮していくべきである。 襲い来る邪悪に、強靭な正義と意志力をもって、悩める友の痛みを引き受け、宇宙本源の生命から湧き出す慈悲のエネルギーと融和しつつ、一切の人々の生命を歓喜のリズムに染め浸しきるまで――。法華経は永遠の菩薩道なのである。 「大法とは即ち行者己心の異名なり」(同八七一) 主要参考文献: 『御義口伝講義』(絶版) 池田大作 聖教新聞社; 『哲学入門』 ヤスパーズ 新潮文庫; 『人間主義の日蓮本仏論を求めて』(絶版)松戸行雄 みくに書房; 『法華経を語る』(絶版) 池田大作 聖教新聞社 (現在では、『法華経の智慧』さえあれば、それが参考文献となるでしょう) |
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